(注:この文章には、大友克洋作の漫画『童夢』についての、完全な“ネタばらし”が含まれています。)
(注:この文章には、樹村みのり作の漫画『40ー0(フォーティー♡ラブ)』についての、中~大程度と思われる“ネタばらし”が含まれています。)
わたくしが持っている大友克洋の漫画『童夢』の単行本(双葉社)は、奥付に「1983年8月18日 第1刷発行」とある。当時わたくしには、購入した図書に自分の名前と購入日を書き入れる習慣があった。「1983.7.22.」と書いてあるので、書店で売りに出された直後に購入したのだろうと思う。保存状態はそこそこだから、書き込みがなければ古書としてどれくらいの値段で査定されるのだろう、と思ったりする。
『童夢』は全1巻の長編で、雑誌に連載されたものを読んだことはなかったが、先行する単行本で短編作家としての大友克洋の実力のほどは知っていたし、前評判も高かったので、読む前から期待していたという記憶がある。
実際読んで満足した。
何十戸もの戸数を擁する巨大な建物が何棟も立ち並ぶいわゆる「マンモス団地」である「堤団地」で、3年余りのあいだに25人もの人が不可解な死を遂げる。「自殺者と思われるもの5名……事故扱い7名 事件扱い3名 変死……9名」そして、25人目が命を落とすところから物語は始まる。警察も捜査本部を設けているが、一つとして真相が解明されておらず、お手上げ状態である。
実は、団地内の一戸に独居する認知症の老人「チョウさん」が超能力者で、事件はすべて彼の仕業であった。今日も彼は団地の広場のベンチに杖にもたれて何食わぬ顔で座りながら、心の中で「まっかなトマトになっちゃいな………」とつぶやき、高い階のベランダに一人でいた赤ん坊を落下させる。念動力である。
ところが今回は、赤ん坊は死なない。地面にたたきつけられる寸前で空中にピタリと止まる。それは、いままさに他所から団地に引っ越してきて家族とともに荷物を運び入れたりしていた小学生の少女「エッちゃん」が事態に気づき、自分の念動力で干渉したからである。つまり「エッちゃん」も超能力者である。
「エッちゃん」はつかつかと歩いてくると、腰に手を当てて「何がトマトよ あんなコトしたら赤ちゃんが死んじゃうでしょ」と「チョウさん」を𠮟りつける。そして「なんていたずらっ子なのかしら」と言いながら戻っていこうとする。
そこに「チョウさん」が念動力で攻撃を仕掛け、念動力による小競り合いが起こるが、「エッちゃん」の優勢に終わる。
このファーストコンタクトで「チョウさん」は、新しく団地にやって来た「エッちゃん」を排除しなければならないと思ったらしく、その後、殺すための攻撃を仕掛ける。そして超能力者同士のバトルが始まる。
古典的なSFにおける超能力の御三家といえば、テレパシー(精神感応)、サイコキネシス(念動力)、テレポーテーション(瞬間移動)であろう。「チョウさん」も「エッちゃん」も共にこの3つの能力を兼ね備えているように見える。しかしテレポーテーションを使用する場面はほとんどなく、バトルは主にテレパシーとサイコキネシスを用いて行われる。
まず「チョウさん」は、団地に住む浪人生の「佐々木勉」をテレパシーで操り、カッターナイフで「エッちゃん」を襲わせる。「エッちゃん」はサイコキネシスで「佐々木勉」の身体を「はじけ」させて難を逃れるが、ショックで団地内の診療所に入院することになる。
入院した「エッちゃん」は、広場のベンチに座る「チョウさん」を病室の窓からにらみつけ、テレパシーでプレッシャーをかける。これが「チョウさん」には相当な苦痛らしい。
次に「チョウさん」は、団地に住むアル中の「吉川」をテレパシーで操り、以前に遠隔的にパトロール中の巡査を殺して奪った拳銃を持たせて、まだ入院中の「エッちゃん」を夜間に襲わせる。それをサイコキネシスでしのいだ「エッちゃん」は、建物の屋上にいる「チョウさん」を見つけ、テレポーテーションで直接対決に向かう。
そして、夜の空を飛んで追いかけっこをしたり建物の屋上に立ったりしながら、サイコキネシスによる戦いを繰り広げる。ちなみに、サイコキネシスを用いれば空が飛べるということをわたくしが知ったのは、平井和正・石森(石ノ森)章太郎作の漫画『幻魔大戦』によってである。戦いのさなかで「チョウさん」が叫ぶ。「お前なんかァ お前なんか嫌いだ 何しに来たんだ 今迄僕一人で遊んでたのに…」
サイコキネシスによる戦いでは、「エッちゃん」が優勢になる。すると「チョウさん」は、無差別テロ的な行動に出る。サイコキネシスを用いて無関係な住人の部屋のガス栓を開けて、何かの拍子に点火すれば爆発が起きるような状態にし、「どの部屋か判んないだろー ざまみろー いいきみだ」と言うのである。
それを受けた「エッちゃん」は、一棟まるごと全部の部屋の窓ガラスをサイコキネシスで割るという対抗手段をとる。なにしろ部屋数が多いので苦労して作業を終え、「……どお? もう大丈夫よ」と言ったのだが、間もなく別の棟で爆発が起き、それが連鎖的に広がっていく。「チョウさん」は「あはっ あははははははは だァまされた だまされた 栓を開けたのは あの棟だけじゃなかったんだよ――だ」と囃したてる。
ここに至って「エッちゃん」は、完全にキレてしまう。
わたくしは四十余年前にこの漫画を読み、「真面目人間」と「不真面目人間」の対立の構図を見たと思った。
「真面目人間」は秩序や規範を好み、「不真面目人間」はそれらを嫌い放恣を好む。「真面目人間」は蓄積しようとし、「不真面目人間」は散逸させようとする。「真面目人間」はベクトルが内に向かう傾向があり、「不真面目人間」はベクトルが外に向かう傾向がある。「真面目人間」は「不真面目人間」を教化し制御しようとし、「不真面目人間」はそれに反発する。乱雑さが増大するのが自然であれば、秩序立てるのには労力がいる。「不真面目人間」はその労力を厭う。構築するより破壊するほうが簡単である。
姉が苦労に苦労を重ねてやっと積み木を積み上げた。年端もいかない弟は面白半分にそれをいとも簡単に破壊してしまう。姉は逆上する。『童夢』で「エッちゃん」が完全にキレたのは、そのようなことだと思った。
上記したようなことについて、ずっと『童夢』とペアで考えてきた漫画作品がある。樹村みのりの短編『40ー0(フォーティー♡ラブ)』である。
『40-0』は、主人公アーサー・ノーマンの「ぼくがウィスコンシンの小さい大学町に その年1年間 学ぶことにきめたのは そこの大学に 独立戦争期の文献が かなり未発表のまま ねむっていたからだった」という独白から始まる。アーサーはその町で、ひょんなきっかけから12歳か13歳の少女フェンにテニスのコーチをすることになる。フェンはテニスは全く未経験だったが、素質と努力でめきめき上達し、アーサーはコーチすることに喜びを覚える。しかしあるとき、アーサーはフェンから、もう練習には来ないと告げられる。フェンは両親のいない孤児で、親戚のおばさんのところで養われていて、おばさんの手伝いをしなければいけないのだという。アーサーはフェンにテニスを続けさせてほしいと談判するために、おばさんに会いに行き、衝撃的な事実を知らされる。「でも まだ子どもです 遊びたいさかりの」というアーサーの言葉に答えておばさんは言う。「子ども 子どもっておっしゃいますけれどね フェンは もうりっぱに女よ まだテニスの練習していたころ 夜 うろうろしているところを おたくたち学生さんの一人に やられちゃったんですよ」
おばさんの家からフェンを探しに行ったアーサーは、知人の学生の一人と彼女がホテルから出てくるところを見つけ、その学生を殴って彼女を自分の寄宿先であるルイス・シンプソン医師の家に連れ帰る。その晩フェンをおばさんの家に帰した後、酒に酔ったアーサーが揺り椅子に座ってシンプソン医師を相手に以下のセリフをしゃべるシーンが、この作品のクライマックスだと思う。「だけどねドクター ぼくは以前フェンにいったことがありました だってあの子は聞いたんです 『先生 でもどうしていつもいつもおなじ形ばかりいく度もいく度も練習しなけりゃならないの?』 それでぼくはいったんです 『自分ののぞみ そのままの完璧(かんぺき)なショットをたった一度打ってごらん そうしたらわかるよ』 あるとき一度だけ練習試合でフェンはそれを打った ナーイス ショット!! すごいぞフェン あの子はぼくにふりむく ぼくにもそれがフェンの会心の一打だとわかった あの子はぼくにふりむく ぼくにはわかっている フェンはこういいたいんだ 『ああ先生 これね 先生がいつもいっていることはこれね』 『そうなんだよ』 ぼくはあの子を見る 『そうなんだよ フェン そいつだ』 ブラヴォオ なのに暴力は 一瞬であの子をこわせる ぼくは教える ボールから目をはなすな フェン 正しくかまえろ 腕をじゅうぶんにひけ なのに暴力は一瞬であの子をこわせる ぼくは教える ボールから目をはなすな フェン 正しくかまえろ たとえ40ー0(フォーティーラブ)からだってあきらめるな それで彼女はふりむく 『ああ先生 これね このことね』 くそ なんてことだ」(『カッコーの娘たち』(朝日ソノラマ(ソノラマコミック文庫))p103-104)
このセリフからだけでも、アーサーが「真面目」な性格なのがわかる。大切に育ててきたものを「不真面目人間」に破壊された「真面目人間」の、怒りと嘆きの叫びである。
アーサーは上記のセリフをしゃべったところで酔いのために眠ってしまうのだが、実はしゃべっている途中でフェンが戻ってきて背後で聞いているのに気がつかなかった。シンプソン医師が言う。「やれやれねむったようだね なんだね フェン わすれ物かい?」「おばさん テニスにいっていいって そのこと先生につたえにきたの」先生とは、いうまでもなくアーサーのことである。
さて、一棟全部の窓ガラスを割るという努力を無にされて完全にキレてしまった「エッちゃん」は、どうしたか。
「エッちゃん」は小学生である。「真面目」な小学生が「不真面目」なクラスメートに意地悪をされたときのように、泣きながら「チョウさん」を追いかけていく。キレているのでそのサイコキネシスのパワーはすさまじく、団地の建物を破壊しながら進んでいくのである。途中さらにかんしゃくを起こしたように、「もう大丈夫だよ さあ」と近づいてきた消防隊員に対し「いやあぁ」と叫んで消防隊員の身体を「はじけ」させたりしている。そして「チョウさん」を追い詰めたところで、彼女を目にとめた母親から「悦子!?」と声をかけられ、2人が駆け寄って抱き合ったので、「チョウさん」は九死に一生を得たかたちになった。
「エッちゃん」は団地を出て京都にある母親の実家に移った。
認知症の老人「チョウさん」は団地に戻り、どこかの養老院に空きが出るのを待つことになった。
そしてある日「チョウさん」が団地の広場のベンチに座ってコックリコックリしていると、「エッちゃん」が静かに歩いてくる。気がついた「チョウさん」の驚愕の表情が見開き2ページで描かれる。しかしテレパシーでロックされてしまったのか、「チョウさん」はベンチを離れて逃げることができない。「真面目人間」には集中力がある。「エッちゃん」は対面のブランコに座り、冷静に無表情に見つめながら、その超能力で「チョウさん」を殺す。外傷はなく、叫び声も上げず、外からはただ苦しんで死んだように見える。自ら申し出て「チョウさん」の「身辺警護」にあたっていた一人の刑事がちょっと気をそらされていた間のできごとで、苦しんだのちに動かなくなったことすら、広場にいた子どもたちのうちの4人にしか気づかれない。少したって刑事が近づいてきて、「チョウさん」が死んでいるのを見る。そこで物語は終わる。
これは“物語の因果律”からすれば、「悪いことをしたので悪いことが起きた」というシンプルなかたちをとっているといえる。
しかし、この文章でわたくしは、「真面目」が善で「不真面目」が悪だといいたいわけではない。「佐々木勉」の身体を「はじけ」させたのは正当防衛だったとしても、自分を助けようと近づいてきた無辜の消防隊員の身体を「はじけ」させて殺したのは、正当防衛ではない。また、「エッちゃん」がサイコキネシスで団地の建物を破壊したことにより、何人もの人が死んでいると考えられる。死者27人を出した「事故」だったそうだが、「チョウさん」が起こしたガス爆発で死んだ人の数よりも「エッちゃん」がサイコキネシスで建物を破壊したために死んだ人の数のほうが多いかもしれない。
『40-0』のほうでは、知人の学生を殴ってフェンをシンプソン医師の家に連れ帰ったアーサーが、上記の長いセリフを語る前に、「彼を告訴します 彼は罰せられるでしょう」とシンプソン医師に言う場面がある。そのときアーサーの右手は骨折している。自らの手が骨折するほど相手を殴りつけたアーサーのほうは罰せられないのか。「良いこと」をしたのだから、相手を傷つけてもおとがめなしなのか。わたくしは非常に有名なアメリカ映画を思い出すのだが、アメリカという国の法律はそうなっているのか。
そのことが描かれていないだけで、アーサーには自分も罰せられる覚悟ができていたのかもしれない。自分も罰せられてもいいから相手を殴りたいと思うほど、彼の怒りは大きかったのかもしれない。
しかし、ここはこの作者らしくないところだと思う。樹村みのりの漫画を何作も読んだことのある人で、彼女が「不真面目」なことを描く漫画家だと思う人はまずいないだろうと思われる。樹村みのりは、「真面目」過ぎるくらい「真面目」な作風の漫画家である。しかし、他に彼女が描いた作品を何作も読んだ者(わたくし)の目から見て、彼女が暴力に対し暴力で私的制裁を加えることを肯定する考えの持ち主だとは思えない。もちろんフィクションに自分が普段思っていることと違うことを描いてはいけないということはないわけであるが、樹村みのりの漫画は全般的に、メッセージ性の強い漫画であると思える。だからここはわたくしなどには違和感がある。「40-0」は、樹村みのりが最も通俗に寄せた漫画のひとつであり、だからこのストーリー展開になった、と、わたくしはこれもずっと思っている。通俗という言葉の響きがあまりよくないので誤解しないでいただきたいのだが、そのぶん作品の評価が下がるということではない。「エンターテインメント性」と言い換えてもよい。
『童夢』において「チョウさん」は、もともと認知症があったところに、「エッちゃん」と団地の建物を破壊するほどの戦いを繰り広げた後は、さらに認知症が進んだようである。本物の子どもは次第に成長していく。しかし悲劇的なことに、年を取って認知症になり「子どもに返って」しまった人は、次第に退行していくばかりである。「チョウさん」に矯正は望めない。放置しておけば今後も殺人を繰り返すかもしれず、殺すしかないということになる。
それに際して、「自分も多数の人を殺してしまった者がその役を担ってもよいものか」と問うのは、この手の漫画の場合筋違いというものであろう。
しかし『童夢』においても、私怨にもとづく私的制裁の意味合いはあったのではないかと思われる。戦いにおいて「エッちゃん」は、「チョウさん」の挑発によって逆上してしまい、我を忘れてしまった。醜態をさらしてしまった。恥をかかされてしまった。自分の超能力の暴走で何人もの人が亡くなってしまったのは、もとはといえばあいつのせいだ、とも思ったかもしれない。いわば「チョウさん」に「落とし前をつけさせる」ために、「エッちゃん」は最後に戻ってきた、という側面があったのではないか。
よく「いじめたほうは忘れてしまうが、いじめられたほうは憶えている」というようなことが言われると思う。認知症の「不真面目人間」と「真面目人間」との間においてはなおさらであろう。相対的に「不真面目人間」と「真面目人間」のどちらが執念深いかといえば、「真面目人間」のほうであろう。実際「真面目人間」の「エッちゃん」は戻ってきた。そして、身体を「はじけ」させるのではなく、「真面目人間」らしく、テレパシーないしサイコキネシスの内向きのベクトルを用いて、「チョウさん」の脳を絞め殺したのである。
四十余年前に『童夢』を読んだわたくしの眼には、「真面目人間」と「不真面目人間」の対照的な典型像が映ったのではないかと思う。『童夢』は「真面目人間」と「不真面目人間」の対立の物語として解釈できると思い、それを他者に伝えたいと思った。『40-0』のクライマックスシーンを援用して伝えたいとも思った。実際伝える相手は身近にはおらず、べつに大したことではないが、いつかはおおやけに向けて発表したいと思っていた。今回ブログに書くことができて、かなりすっきりしました。
NHKのテレビ番組『浦沢直樹の漫勉neo』は、漫画家浦沢直樹がホストになり、いろいろな漫画家の仕事ぶりを紹介する番組である。その番組の、大友克洋をとりあげた回がしばらく前に放送されたのを、妻が録画してくれた。その回のサブタイトルは、「『AKIRA』以上?!伝説的な名作に迫る」である。「『AKIRA』以上?!」の「名作」とくれば、『童夢』である可能性は高いと思われる。『童夢』に関する他者の言説を見聞きして自分が40年間考えてきたことが揺らいでも困ると思い、録画されたものをまだ視ていない。したがってその回で『童夢』に焦点が当てられていたのかどうかも、まだわからないわけだが、この文章を投稿してしまった後でゆっくり視てみたいと思います。
蛇足だが、『童夢』で、夜間に「チョウさん」と「エッちゃん」が高所でバトルを繰り広げているとき、団地の棟のベランダから自分を見上げている人たちが何人もいるのに気づき、「チョウさん」が動揺する場面がある(『童夢』(双葉社)p127-129)。その見上げている人たちは、全員子どものように見える。つまり、子どもたちだけが超能力者同士の戦いを見ていて、大人たちは気づいていない。後になって子どもたちが自分の見たことを大人に話しても、「夢でも見たのだろう」と、まともに取り合ってくれないであろう。『童夢』というタイトルは、「チョウさん」が子どもに返ってしまった人間であり、「エッちゃん」が小学生であるということとも結びついているだろうが、この場面とも結びついているだろうとわたくしには思われる。また、少し離れたところから無言のうちに「チョウさん」の最期をみとった広場の子どもたちとも結びついているかもしれない。
2026.5.31.
改2026.6.1.
改2026.6.3.
改2026.6.4.