わたくしは、物語の基本を“因果律”ととらえる。これは哲学用語の「因果律」とは異なるので、“物語の因果律”と呼ぶことにする。

わたくしの考える“物語の因果律”とは、「原因→結果」という意味での「因果」を、価値の面から見たものである。「良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるべきだ」と考えることであり、「良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるべきだが、実際はどうか」を描くことである。

無論“物語の因果律”を描いていなければ物語ではないというつもりはない。しかし、現存する物語の総体のかなり大きな部分に“物語の因果律”が入り込んでいると思う。

「良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるべきだ」と考えることは、人類が「原因→結果」を意識するようになり、「こういう結果をもたらすためにこういうことをしよう」と、「計画的」な生活を送るようになって顕著になってきたのではないかと思う。

獲物を捕らえるために罠を仕掛ける。罠にかかった獲物を自分のものにできればうれしいし、罠にかかってくれなければ悲しいし、罠にはかかったがそれを他人に横取りされてしまえば悔しい。作物を収穫するために種をまく。実ればうれしいし、干ばつで枯れてしまえば悲しいし、合戦で畑が踏み荒らされれば悔しい。一個の罠を仕掛ける場合よりも、畑で作物を育てる場合のほうが、耕したり水をやったりと、時間も労力もかかるので、喜びもより大きくなるだろうし、悲しみも悔しさもより大きくなるであろう。

「大きく良いことをすれば大きく良いことが起こるべきだ。大きく悪いことをすれば大きく悪いことが起こるべきだ」という考えかたも出てくる。

関川夏央の文章をよく読むが、彼の文章にわたくしは、書評を書いた場合にも、ある人物の評伝風のものを書いた場合にも、その他の事象について書いた場合にも、対象となる書物や、人物の生涯や、その他の事象に、「物語」を見ようとしている、「物語」を見たいと思っている、という姿勢を強く感じる。わたくしの物語志向はこれででいいのだろう、と、勝手に意を強くさせていただいている。

ありがたいことにその関川夏央が、山田風太郎著『八犬伝』について書いた文章の中で、わたくしが上記したことに関して恰好の具体例を提示してくれている。関川夏央は、『南総里見八犬伝』を著した滝沢馬琴のことを、こう書く。「また彼は、『八犬伝』四百数十人の登場人物すべてに対し、善人には善果を、悪人には悪果を与えて「勧懲」し、延々たる講釈と説教とを書きつらねなければ気が済まない超完全主義者であった。」(『本読みの虫干し―日本の近代文学再読―』(岩波新書)p127)(『文庫からはじまる 「解説」的読書案内』(岩波現代文庫)p181にも、ほぼ全く同じ文章が載せられている。)

“物語の因果律”にマニアックに忠実であった作り手の姿をわかりやすく表していると思う。

  2026.5.31.

投稿者

しまづみ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)