(注:この文章には、P.A.WORKS制作、劇場版「SHIROBAKO」製作委員会製作、水島努監督のアニメーション映画『劇場版SHIROBAKO』についての、重要と思われる“ネタばらし”が含まれています。)
アニメ『劇場版SHIROBAKO』のブルーレイディスクを購入してからしばらくたって、先日、初めて視聴した。
「武蔵野アニメーション」、通称「ムサニ」という小さなアニメーション制作会社があり、羽振りのよさそうな別の制作会社が制作を放棄したかたちになっている『空中強襲揚陸艦SIVA』という劇場用アニメーションの制作を引き継ぐことになる。その制作進行の総括を任されたのが、『劇場版SHIROBAKO』の主人公、「ムサニ」の若手社員の宮森あおいである。引き継ぐといっても、タイトルは『空中強襲揚陸艦SIVA』に決定しているが、そしてそのタイトルを変えることはできないようになっているが、前の制作会社は手を付けたか付けないか程度で投げ出しているので、作品内容は全くできていない。しかし公開時期は10か月後に決定している。要するに、タイトルと公開時期しか決定していないが、逆にその2つには縛られており、10か月というわずかな期間で劇場公開用アニメを一から作り公開までもっていかなければならない。
「劇場版」という言葉が示唆するように、『劇場版SHIROBAKO』は、連続テレビアニメ『SHIROBAKO』の続編である。テレビ版での主人公も、新人時代の宮森あおいで、そこでは「ムサニ」はテレビアニメを作っていた。劇場版はテレビ版の4年後の話ということになっている。その間に、他社との契約上のトラブルにより「ムサニ」は、社長の丸川正人は責任を取って辞任・引退、社員も激減するという甚大なダメージを負っている。『劇場版SHIROBAKO』では、劇場用アニメを作るのに、時間もないが人手もないので、宮森は、まず「ムサニ」から離れていったスタッフたちを呼び戻すところから始めなければならない。奮闘する彼女に直接的・間接的に協力するのが、彼女の高校時代のアニメーション研究会の仲間であり、テレビ版にも登場した、安原絵麻(アニメーター)、坂木しずか(声優)、今井みどり(脚本家)、藤堂美沙(3Dクリエイター)である。
宮森とスタッフたちの努力の甲斐あって『空中強襲揚陸艦SIVA』は完成し、公開3週間前にダビングにまでこぎつける。社外の試写室で少数のスタッフたちが見守るなか、ダビングが終了し、監督の木下誠一はOKを出すのだが、その言葉は歯切れが悪い。他のスタッフたちにも何となくもやもやしている様子が見て取れる。一同、どうも作品の出来に満足していないようなのである。その夜、会社に戻って2人きりのときに宮森は、満足できていないという木下監督の本音を聞き出す。そして、多数のスタッフを招集して臨時の会議を開く。
「…少しだけ、私の感想を言わせてください。いまのままでも、『SIVA』のお話としては、成立していると思います。序盤から中盤まではテンポもよくて、本当に素晴らしいです。ですが終盤はそのテンポが逆に速すぎて、物語が急展開で、盛り上がりが淡白に感じてしまいました。」と、宮森が口火を切ると、「クライマックスが駆け足ってのは同感。」(井口祐未(アニメーター))、「最後、音楽に負けてる感があるかな。」(新川奈緒(色指定・検査))、「これからってときに、『終わっちゃったー』みたいなね。」(堂本智恵美(動画検査))、「悪くはないけど、何か足りないな、って感じかな。」(佐倉良樹(撮影監督))、「何か…。」(安原絵麻(アニメーター))、「外連味(けれんみ)でしょう。」(遠藤亮介(アニメーター))、「オーラ!」(久乃木愛(アニメーター))と、次々に感想が表明されていく。宮森は、「ラスト、作り直したいです。」と皆に訴える。自分のなかではラストを延長してこのように締めくくりたいという具体的な構想が既にできているにもかかわらず、残り3週間でそれを実現させようとすることは、強行スケジュールをこなしてきたスタッフたちにさらに非常な負担を強いることになる、という気兼ねと、失敗への恐れから、「もういいよみんな、おれは満足してるよ。」と言う木下監督に対し、「監督の満足じゃないっすよ、観客の満足っすよ、今話してんのは。」(高梨太郎(演出))という言葉も飛び出す。
そして、「ムサニ」では、『SIVA』のラストを作り直すことになる。
そして、『空中強襲揚陸艦SIVA』は、劇場公開を迎える。
そこでアニメ『劇場版SHIROBAKO』は終わっている。画面に『SIVA』のラストの部分が流れ、それが終わると同時に『劇場版SHIROBAKO』のエンドロールが流れ始める。エンドロールの背景には、映画館での木下監督他数名の舞台挨拶の光景や、後日譚としてのそれぞれの登場人物の日常生活の風景などが入れ替わりで次々に現れるが、エンディングテーマ曲の歌が流れているので登場人物のセリフはない。
つまり、『空中強襲揚陸艦SIVA』が封切られた後成功を収めたかどうかまでは、はっきりと描かれていない。
『劇場版SHIROBAKO』のプロットの根幹は、主人公たちが力を合わせてアニメ『空中強襲揚陸艦SIVA』を作り上げ、公開に至らしめようとすることである。困難な状況の下でそれを行おうとするので、緊張感が生まれ、また、完成が近づくと、当初制作を請け負った羽振りのよさそうな制作会社が、自分たちが制作を投げ出していたにもかかわらず、権利を主張して横槍を入れてきたりする。いったん完成した後、ラストの部分に自分たちが満足できず土壇場で作り直すというさらなる試練が加わる。
それでも結局、公開に至らしめることができた。この文章ではそこまで告げてしまった。重要と思われる“ネタばらし”を含む、と最初にいった意味はそれである。申しわけありません。
しかし、『空中強襲揚陸艦SIVA』のアニメ作品としての出来が実際のところどうだったかということは、それとはまた別の問題である。『劇場版SHIROBAKO』では『SIVA』のラストの部分しか流れないので、その部分の出来をもって『SIVA』全体の出来とせざるを得ないわけだが、最後の最後で作り直しまでしたことになっているラストの部分がつまらないものだったとしたら、ずいぶんと間の抜けた話で、『劇場版SHIROBAKO』に対する観客の評価はとても低くなるに違いない。
実は、いったん完成した『SIVA』のラストの部分に具体的な不満の声が上がったのは、宮森が招集した会議においてが最初ではない。その一つ手前、ダビング作業が終わった際、社外の試写室で稲浪良和(音響監督)が漏らした「個人的にはあと1分見たかったですけどね、クライマックス。」という言葉が最初であり、それに続いて高梨太郎(演出)が「まあ、若干のしりすぼみ感?」と言っている。
細かくいえば、『SIVA』の最終完成形は、ラストの部分を作り変えたものというよりは、ラストの部分に新しく作った部分を足したもの、ラストの部分を延長したもの、という意味合いが強いと思う。新しく足した部分は、稲浪の言った1分よりかなり長く、3分は優に超える。それでも、『劇場版SHIROBAKO』の最終部分で流れる『空中強襲揚陸艦SIVA』の最終部分は、5分間以上6分間未満である。
『空中強襲揚陸艦SIVA』は、そのタイトルから、SF作品になることが運命づけられている。作製された『SIVA』のクライマックスは、アクションシーンになっている。『劇場版SHIROBAKO』では、最後の5-6分間、劇中劇として、それまでのストーリーとは全く異質なSFアクションが展開される。その5-6分間が、『劇場版SHIROBAKO』が成功するか否かの鍵になるといって過言ではないと思われる。
わたくしは、SFアクション映像で重要なのはスピード感と視点の転換だと思っていて、その2者においてはアニメーションは実写映像よりも有利だと思っている。したがって、SFアクションは(さらにいうと、よりマイナーだが忍者アクションも)アニメのお家芸だというのが持論である。
などといっても、1970年まではテレビアニメをアホほど観たわたくしだが、それ以後はほとんどアニメというものを観ておらず、所有しているディスクも『劇場版SHIROBAKO』ただひとつである。『SIVA』のクライマックスで展開されるアクションシーンが、昨今のアニメーション映像の技術的水準に照らしてどの程度の位置にあるのかわからない。
しかし、アクションシーンの映像的な技術の高さにどれほど感心できるかというのは、観客にとって一番重要な問題ではないであろう。
重要なのは、そこにある“物語”に、どれだけ心が動かされるか、という情感の側面だと思う。
『劇場版SHIROBAKO』の最後に置かれた、それ以前の部分が全く省略された5-6分間の『SIVA』の最終部分に現れている“物語”に、観客がどれだけ心を動かされるか。大きく動かされるとしたら、『劇場版SHIROBAKO』を観終わった観客は満足して映画館を出るであろう。それは「ムサニ」の会議室で高梨太郎が言った「観客の満足」になるのではないかと思われる。
この5-6分間は『劇場版SHIROBAKO』にとってかなりの勝負どころで、下手をすればそれまでの全過程をも台無しにしかねないのではないか。しかしおそらく製作陣は、十分な勝算を持ってこの5-6分間を提示していると思う。先にわたくしは、『空中強襲揚陸艦SIVA』が封切られた後成功を収めたかどうかまでは、はっきりと描かれていない、と述べたが、『劇場版SHIROBAKO』のエンドロールとともに流れる映像のなかに、『SIVA』のスタッフの円宏則(演出)と山田昌志(演出)が、“偵察”のためか、映画館で『SIVA』を観る観客たちに紛れて座っているすぐ後ろで、男性の観客の一人が感極まって泣き出すシーンがあり、それは、『劇場版SHIROBAKO』の製作陣が、観客の心を動かすことができるだろうという自信を、控えめに唯一表したところかもしれない。
少なくともわたくしは、この5-6分間を視て、“物語”に感動した。ほかに多くの人もそうだったと推測する。それはなぜか。
それは、「どこかで見たようなもの」を組み合わせて作られているからだと思う。
「ムサニ」の社長であった丸川正人は、社長職と会社を辞した後、食堂のマスターになっている。そこに『空中強襲揚陸艦SIVA』の公開当日、宮森あおいが訪ねていき、チケットを渡す。
「へー、『SIVA』…これって、どういう話?」と訊ねた丸川に対し、宮森が言う。「怒りんぼだったり、怠け者だったり、のんびり屋や泣き虫が、一致団結して、新しい世界を目指す…目指して、あがく話です。」「あがいてるんだ。」「あがいてます。いまの「ムサニ」の、すべてが詰まってます。」
『劇場版SHIROBAKO』のオープニングでは、先行するテレビ版『SHIROBAKO』のあらすじが紹介される。そこでは、「ムサニ」のメンバーを描写するなかで、「怒りんぼも怠け者も、のんびり屋も泣き虫も」という言葉が使われている。宮森の丸川への言葉はこれに呼応している。『SIVA』の登場人物たちは、「ムサニ」のメンバーたちに重ね合わせられているのである。
しかし、わたくしが、「どこかで見たようなもの」を組み合わせて作られている、というのは、そのことではない。
『SIVA』のラストの部分5-6分間のなかに、「ああ、このシーンはあの映画のラストシーンを思い出すな」とか、「このセリフは、どこでだったかは思い出せないが、他の作品のなかで聞いたことがあるようなセリフだな」というような要素がいくつも存在する、ということである。
物語が受け取られるとき、単に消費されるのではなく、受け取り手の内部に蓄積されもする。それは辞書や事典の項目のようなものになる。外部には、他者における蓄積があり、さらに、書籍やディスクといったハードへの蓄積もある。それらの蓄積が形成する沃野から、新しい物語が生まれる。
新しい物語が受け取られるとき、受け取り手は、かつて自らの心を動かしその後も自らの内部に蓄積されている要素に類似した要素を新しい物語のなかに見出し、心を動かされる。
新しい物語は、受け取り手に蓄積されているものを動員させることができれば、たとえ「最後のわずかな部分」しか成立していなくても、受け取り手の心を動かすことができる。
そして、『空中強襲揚陸艦SIVA』の最後の5-6分間は、初めて観た人の心を動かすことができる。
そして、『劇場版SHIROBAKO』の物語も、『空中強襲揚陸艦SIVA』の物語も、すでに物語の沃野にあるといっていい。
いくつかの物語に共通して見て取ることができ、「どこかで見たようなもの」となる要素を、いつからかわたくしは“物語の類型”と呼ぶようになった。
『劇場版SHIROBAKO』とは全く関係ないが、一例をあげたいと思う。
奈良時代の話。凶状持ちの若い男が、夜、焚火にあたっている若い彫刻師の男の服を奪い、その男の腕を傷つけて去っていく。すると、後から若い女が追いかけてきて、「なぜにいさんを刺したの‼」となじる。男は力づくで女を情婦にしてしまい、連れ歩く。やがて男は盗賊のかしらになるが、手下の讒言に迷い女を刺す。刺されて倒れた女は言う。「おまえとはずっといっしょにしあわせにくらしたかったのよ………」「うそをつけ‼てめえはあの仏師の妹でおれに復讐をする気だったんだろう!」「いいえ……妹と名のったのはおまえに近づくため……あの仏師とは関係ありません」「なにい? じゃ だれだ てめえはいったいどこのだれだというんだっ」「私は……いつだったかおまえに命を助けられた者です………」「いのちを? ばかをいえ てめえとはどこであった?思い出せねえ」「……おまえは 私を そっとだきあげて助けてくれたのよ おまえは人殺しで乱暴だけど私を殺さなかった……おまえは ほんとは心のやさしい いい人だと知って…… 私は うれしかったの だからおまえにとついだのよ でも…もう……だめね……おわかれだわ……私は 死ぬのだわ………」そして女は死に、ある生き物の死骸が現れる。それを見た男は慟哭する。
これは、手塚治虫作の漫画『火の鳥 鳳凰編』のなかの一挿話である(『手塚治虫漫画全集205 火の鳥⑤』(講談社)p70)。一見してわかるのは、昔話の「鶴女房」や「狐女房」などとの類似性である。“物語の類型”としては、「恩返しもの」と見る見方もあるし、異類婚姻譚と見る見方もあるだろうが、どちらにせよさんざん使われてきたものである。男は屋外で手下の讒言を聞き、住処に戻っていって女を刺す。住処に戻ったとき、女は機織り機の傍におり、このあたり手塚の過剰さの表れだと思うのだが、やはり「鶴の恩返し」を意識しているかと思われる。いまさら「鶴の恩返し」をそのまま漫画化したところで、わたくしなどは心を動かされないだろうと思う。しかし、『火の鳥 鳳凰編』のこの挿話には心を動かされる。これにはちゃんと伏線があり、それ以前のページに男がその生き物を「助けた」場面は描かれているのだが、さりげなく描かれているので、わたくしはあらためて読み返さなければ気がつかなかった。描写を見る限り、「命を助けられた」というのは少々大げさで、男からすれば「殺さなかった」に過ぎないようなものである。それをその生き物は、「そっとだきあげて助けてくれた」と感じ、一途な恋情を抱いてしまったと解釈できる。受けた恩を返さなければという気持ちよりも、男を恋い慕う気持ちの強さから、人間の女に姿を変えて男を追ってきたのではないか。部下の讒言に迷い妻に手をかけるというのは、たとえばシェイクスピアにもあった。(そこは、手塚治虫が意識していたかどうかはわからない。ただ、彼が漫画『バンパイヤ』に、間違いなく意識して別のシェイクスピア作品を仕込んでいたことを思い出す。)シェイクスピアの場合は、妻が密通をしているという讒言であったが、こちらは、復讐のために男を殺そうとしているという讒言である。互いを愛する者同士の一方が誤解によりもう一方の手にかかって命を落とすというのは、いうまでもなく、手にかかるほう、手にかけるほう双方にとっての悲劇である。この挿話では、そこに、異類婚姻譚の要素と、漫画作品であるという要素が加わり、「どこかで見たようなもの」を「見たことがないようなもの」の領域にまで進めているのではないかと、わたくしには感じられる。漫画作品なので、ある生き物の死骸が絵で描かれる。そこは大きなポイントであり、男がその姿を見たとき、その生き物は自分に害をなすはずなど絶対になかったのだと悟ったということが、画面から伝わってくるようである。気づいたときにはもう遅く、悲劇に普遍的な要素として非常に重要と思われる“取り返しのつかなさ”が強調され、男はこの上もなく後悔し絶望する。使い古されたような“物語の類型”でも心を動かすことができると知り、驚かされる。
“物語の類型”は、「どこかで見たようなもの」として、他の「どこかで見たような」要素と相まって、心を動かすことができる。“物語の類型”は再利用できる。そしてだれでも利用できる。「パクった」ことにはならないし、著作権も発生しない。
わたくしは“物語の類型”を抽出するのが好きで、それは、わたくしの、連想と比較でものを考える傾向性からきているのだろうと思う。
道満晴明の描く漫画とわたくしは相性がよいと感じているが、それはひとつには、彼が古今東西の民話・童話やSF作品などを自らの血肉とし、そこから漫画を描いているのがよく見える気がするからではないかと思える。
「どこかで見たようなもの」よりも「どこでも見たことがないようなもの」のほうに価値を見出す、という人がいるであろうことは想像がつくが、そういう人と事を構える気はわたくしにはない。
“物語の類型”の抽出などどうでもよろしいと思っているばかりか、物語や説話そのものが眼中にない、とても頭がよさそうで快楽に貪欲そうな人によって、書物はこう読むのが楽しいではないか、ということを親切に教えてくれようとする文章が、何十年も前に書かれたような気もする。
まだこんなことをやっているのか、と思う人もいるかもしれない。まだこんなことをやっています。
今回、『劇場版SHIROBAKO』を視聴して、以上のことを書く機会だと思った。
2026年9月23日
改2026年9月24日
改2026年9月27日
改2026年9月28日