生きているあいだに気づいたことがある。わたくしにおいて、「怒り」という感情は、それが生じると同時にそれを正当化する性質を持つ、ということである。「怒り」が生じると同時に、この「怒り」は正当である、怒っている主体である自分は正しい、と、無条件に感じてしまう。
これは、他者に生じる「怒り」についても当てはまるのか。広く一般的に、「怒り」はそれを正当化する性質を持つといえるのか。
いえるのではないかと推測する。そして、「(一般的に、)「怒り」は自らを正当化する性質を持つ」という仮説を提示する。
わたくしにはこの仮説が正しいかどうかを検証する力量がない。「怒り」は、人間の感情の進化、分化のかなり早い段階で発生し、プリミティブな状態にとどまっている感情であろうから、全人類にわたって共通する部分が多いであろう、と思ったりするが、それとこの仮説を正しいとすることには大きな隔たりがある。この仮説は単なる類推と直感的なものの域を出ていない。
にもかかわらずこの仮説を提示するのは、「怒り」は負の感情であり、広く一般的に「怒ること」が現実に対する危険を孕むのは間違いないと思えるからである。
たとえば、「あの人は私に怒りを生じさせたのでそれに報いてやりたい」と思うことは、危険を孕むと思われる。そして、もしその怒りが正当な怒りでなかったとしたら、それはよろしくない。一方、「あの人はわたくしに喜びを生じさせたのでそれに報いたい」と思うことに基本的に危険はないだろうし、もしその喜びが何らかの誤認に基づくものであったとしても、特に問題はないのではないかと思われる。
AはBに対して怒っており、BはAに対して怒っており、AもBも共に自らの怒りは正当なものと思っている、という対立の構図は危険である。共に自らこそ正しいと思い続けながら報復の連鎖が続く可能性もある。
わたくし自身に関していえば、振り返って、あのときの自分の怒りには正当性に疑問がある、と思うことや、あのときあんなふうに怒りを表出しなければよかった、と思うことや、あのとき怒りに任せた行動をとらなくてよかった、と思うことが、何度もあった。
正式にそのようなことをする甲斐性もないのだが、仮説が正しいかどうかを検証するために、アンケートを取ってみるのはいい方法かもしれない。よければ皆さん、ご自身の「怒り」について、それが生じると同時にそれを正当化する性質を持っていないか、考えてみてください。
仮説が正しいとみなせるのであれば、「自らの「怒り」というものを完全に信用するべきではないだろう」ということが、全世界規模でいえると思う。
2026.5.6.