三平に 死せざる駒(もの)が二つあり 手練れ四貫目 タフよ苔丸

今は亡き日本漫画界の二大巨匠、手塚治虫、白土三平の作品では、とにかく人がよく死ぬ。

これは、彼らの作品はストーリー至上主義で、初めにストーリーありき、キャラクターはストーリーに従属する構造になっているからだと思う。そしてそれは、彼らを巨匠たらしめたゆえんの一つであったと思う。

白土三平が、ある作品で、読者が主人公と思っていたキャラクターを早々に死なせてしまい、読者を驚かせたのは有名な話である。

手塚、白土のストーリー至上主義は、ストーリーのためなら平気で登場人物を死なせるので、読者が特定のキャラクターに愛着を持ったり肩入れしたりしながら作品を読み進めると、「痛い目に合う」ことがままある。

それとは対極的に、読者が共感したり自己同一視したりでき、読者の願望の実現を代行してくれるような主人公を押し立て、ストーリーが主人公のキャラクターに従属するように見える、本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』は、キャラクター至上主義の典型のように思われる。ここでは主人公の存在は絶大で、完全に主人公中心に物語が進む、というイメージがわたくしにはある。『男一匹ガキ大将』は、手塚、白土が漫画家としての地位を確立し、日本の漫画界に少なからぬ影響力を持つようになってから発表された作品である。白土三平の読者層については、『男一匹ガキ大将』の読者層、つまり草創期の『少年ジャンプ』の読者層とのあいだに幾分か年齢のずれがあったと思うが、自分たちの読みたいものはこのかたちではないのだと、読者が手塚、白土のストーリー至上主義に抱いていた不満を補完した側面が『男一匹ガキ大将』にはあったのではないか、そしてそれはこの作品が人気を博することに多少なりとも貢献したのではないか、と思う。

手塚治虫はスターシステムで作品を作り、同じ名前で同じ姿をしているが別人であるキャラクターを何回もそれぞれ別々の作品に登場させている。これは、彼が常に描きたいテーマ、描きたいストーリーをたくさん抱えていて、フル回転で次々に作品を生み出していたことと関係しているのではないかと思う。多数のキャラクターが登場する作品ひとつひとつについて、キャラクターひとりひとりを一から造形するのは手間ががかる。スターシステムはその手間を省く手段となったであろう。彼がスターシステムを用いるのは、基本的に脇役についてであり、主役はその一作にしか登場しない「使い捨て」が多く、見た目は没個性的な「美男」が多い。主役はテーマやストーリーに最も従属したキャラクターであり、行動はそこからおのずと決まってくる、見た目は没個性でよい、となれば、主役についてもキャラクター造形の手間が省けるわけである。ここが演劇や映画における古典的なスターシステムと異なるところで、あくまでも役者ではなくストーリーでアピールしようとする姿勢がうかがえる。(もっとも例外はあり、たとえば『地球を呑む』に登場する「関五本松」は、主役でありながら、個性的で魅力的なキャラクターだと思う。しかしこの作品について手塚治虫自身は、ストーリーの面で失敗作であったと感じていたらしいところがまた、興味深い。)

手塚漫画における代表的な悪役キャラ「アセチレン・ランプ」は何回死んだか知れない。手塚治虫は「アセチレン・ランプ」を愛していたか。ここで「愛していたか」というのはある種あいまいな問いになり、スターシステムにおける「俳優」として愛していたのだとしたら、それは彼が演じた「役柄」などと必ずしも質が一致する問題ではない。

そんななかで、手塚漫画の常連中の常連であるが「死なない」キャラクターとして目立ったのが、彼自身が「スットン狂で不死身」と呼んだ「ヒゲオヤジ」である。

白土三平はスターシステムをとっていたか。登場人物が多いのでどうしても同じ顔を使うのは避けらなかったとしても、手塚漫画のようなスターシステムを積極的にとってはいなかったことが見て取れる。

手塚作品における「ヒゲオヤジ」的な「不死身」キャラは、実は白土作品にも2者登場すると思う。第一のキャラクターは、いくつもの作品に登場し、同一人物であるようにもみえるが、完全にそうであるかどうかはわからない。第二のキャラクターは、代表作2作に登場し、顔も名前も同じだが、それぞれ別の人物であることははっきりしている(つまり、このキャラクターに関しては手塚漫画風のスターシステムが採用されている)。そして、両キャラクターとも、作品内で死なない。前者は「四貫目(しかんめ)」、後者は「苔丸(こけまる)」である。

「四貫目」は忍者である。なぜ死なないかというと、単純に戦いに強いからである。そして、「目立たない」「人々の先頭に立たない」「集団を率いようとしない」からである。白土漫画の何か文庫本の巻末に佐藤忠男が書いた解説のタイトルが、「孤独な技術者の肖像」であったと記憶している。資料が手元にないので、この言葉が白土三平自身のことを指したのか白土漫画のキャラクター像のことを指したのかまで憶えていないが、「四貫目」はこの言葉のイメージに当てはまると思う。

「苔丸」は忍者ではない。出自は非戦闘民のようだ。彼も強いが、優れた専門技術者である「四貫目」には到底及ばないレベルである。戦いで無傷ではいられず、手足の一本ぐらいは失う。2作品ともそのようになっている。しかし死なない。生き続けることへの強烈な意思を発散しているようなキャラクターで、“殺しても死なない”ようなしぶとさがある。作者は彼に、願望も込めて、支配され抑圧された民衆の総体としての生命力の強さを象徴させたかったのではないか。

「四貫目」と「苔丸」には、陰と陽、静と動といったようなコントラストがあるが、どちらも白土三平ならではのキャラクターといえるであろう。

  2026.5.6.

  改2026.5.7.

  改2026.5.9.

投稿者

しまづみ

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