(注:この文章には、松本次郎作の漫画『女子攻兵』についての、自分には中程度と思われる“ネタばらし”が含まれています。)

わたくしは、自らの存在意義は、意識だと思っている。わたくしにとって、生≒意識であり、生きること≒世界を意識することである。死の最大の恐怖は、意識が失われて永久に戻ってこないことであり、わたくし側からみれば意識がなくなると同時に世界もなくなるのであるが、実際はその後も世界は存在し続け、世界は存在し続けているのにわたくしはそれを意識することができない、という、底知れぬ絶望感と寂寥感である。

星野之宣の漫画『レインマン』は、単行本にして全7巻(小学館)の長編であり、作中に「世界とは、意識か?」(第3巻p22)、「世界は意識だ!」(第3巻p37)、「世界は意識か?」(第7巻p242)などの言葉が出てくる。それよりも以前に、デカルトの有名な言葉も「我は考える――ゆえに我あり。」と引用される(第1巻p105)。当然のことながら他者がわたくしと同様の感覚を持っているとは限らないので、間違っていたらごめんなさいだが、『レインマン』を読みながらわたくしは、ああ、星野之宣は「死」を意識したな、と思った。死を意識し、『レインマン』という作品を描きながら自らの死生観、世界観を整理しておこうと考えたのではないか。それからしばらくして、NHKのテレビ番組『浦沢直樹の漫勉neo』で、星野之宣をとりあげた回を視た。『浦沢直樹の漫勉neo』は、漫画家浦沢直樹がホストになり、いろいろな漫画家の仕事ぶりを紹介する番組である。番組で焦点を当てていた星野之宣の作品は『海帝』であったが、彼自身がVTR出演して「自分はいつ死ぬかわからない」というようなことを語っているのを聞き、『レインマン』での言葉が死を意識してのものであるという推察が、補強されたように感じた。

ヘンリー・ジー著、竹内薫訳『超圧縮 地球生物全史』(ダイヤモンド社)の第11章「先史時代の終わり」の最後の段落には、「四十五億年の無秩序な騒乱の後、地球は、自らを意識する種を生んだ。」と記されている(p254)。

しかし、2026年1月25日に、「死以前の恐怖」とでもいうべきものを強く感じてしまう出来事がわたくしに起こった。突然、かなり広範な健忘が生じたのである。具体的にいうと、わたくしは電車通勤をしているのだが、翌日乗る電車の行程にある駅のいくつかの名前を思い出せない、また、いくつかの暗証番号を思い出せない、などである。しかも、よくこんな偶然が起こるなと思うのだが、健忘が生じるのとほとんど同時に、わたくしのスマートフォンが故障して、画面が暗くなり判読できなくなってしまい、従って操作できなくなってしまったのである。電源を切ることもできなかった。

これは個人的にかなりダメージを受ける出来事であった。ある事物を思い出せないということは、それが記憶として残っていないか、あるいは、記憶として残ってはいても、それを意識下から意識できるレベルにまで引き上げることができないということである。生物としての死を迎えれば意識が戻らないのは当然である。しかし生物としての死よりもずっと前に、世界を意識することに支障をきたすことがありうるのだということを、いまさらながらに、身に迫った危機のように感じたのである。立場上仕事は休めない。翌日も電車に乗って仕事に行かなければならない。しかし、通信や検索を通じて記憶の再生や再認の補助をしてくれるスマートフォンが故障してしまって使えないということは、不安を募らせた。

もともとわたくしは、自らに意識の病とでもいえるような傾向があると思っていた。強迫的に、あらゆるものを意識のうちにとらえなければ気が済まないようなところがあった。緊張度が高く、10代のころから過敏性腸症候群様の症状がはっきり出ていたのは、そのことが関与していたのだろうと思っている。強迫的な意識の活動は身体に負荷をかける。その負荷がいや増しに増している状態で、2026年1月25日に健忘が生じたと思う。睡眠時間が絶対的に少なかった。状況的に睡眠時間が少なくなりがちであったのに加えて、意識がなるべく長く自らを保っていたいがために、さらに睡眠時間を少なくしていたようである。したがって、身体の各領域が意識の負荷を逃れていられる時間、意識の負荷によって生じた機能の不具合から回復するための時間が不足していたのだろうと思う。

『時代の風音』という堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿の鼎談集のなかで、司馬遼太郎は、東洋史学者・宮崎市定が『中央公論』に寄せたという文章を紹介している。「自分(筆者注、宮崎市定)が若いころは左翼の時代で、ほとんどの人が左翼になった。良心的な人は左翼になった。ただ自分がならなかったのは、大脳が身体の生理を支配するのができないのと同じことだと書かれてました。つまり、いま胃袋を動かせといったって、胃袋は勝手に動いてるし、大腸も、膵臓(すいぞう)も勝手に動いている。それを全部命令でやろうとしたら内臓は死んでしまう。細胞は勝手に新陳代謝してリフレッシュしているのに、いま新陳代謝せよとか、さあインシュリンを出せとか、そんなバカなことをしてるはずがない。だからあれは間違いに違いないと思ったから自分は免れた、とお書きになっていました。」(『時代の風音』(朝日文庫)p41)

司馬遼太郎が引用した宮崎市定の文章は、左であると右であるとを問わず、全体主義的なものの非人間性についての比喩になっていると解釈するが、わたくしの心身にも、意識による圧政のようなことが起こっていたのではないかと思われる。意識が、たとえば腸管に、いま動け、いま止まれ、などと具体的に命令するのではないにせよ、自らのパフォーマンスを無理やり続けようとすることにより、過剰な負荷をかけてしまい、腸管の生理的でいわば自然な動きに不具合が生じることはあり得るように思われる。意識の圧政に耐えかねて、身体が音を上げてしまったのではないか。

昔からあるわたくしの過敏性腸症候群は、心身症としてのいわゆる自律神経失調症的な要素が強いかと思っている。2026年1月25日の少し前から、より強くより広範に自律神経の失調が生じていたのではないか。そう思える節がいくつかある。腸管運動の暴走も程度を増していたようであるし、検温していて体温調節がうまくいっていないと思われていたし、眼の調節障害のようなものも感じていた。

1月25日のエピソードの後、それまでよりも多く睡眠をとるよう心がけた。スマートフォンは、新しいものを購入した。

健忘は徐々に回復した。

腸管運動や体温調節や視ることに関する失調症状は多かれ少なかれ続いているし、以前にはなかった新しい症状を自覚するようになった。ひとつは、易疲労感である。また、なんとなくぼーっとして、完全には覚醒していないような、頭の芯が冴えていないような感じが出没するようになった。ふらつきのようなものも感じるようになった。これらは、自律神経の不調で説明がつくかもしれない。器質的な障害ではなく機能的な障害であるとすれば、可逆的である可能性が高く、休養と栄養をとることによって、完全にではないにせよ回復することができるかもしれない。

しかし、健忘はどうか。自律神経の不調のみで健忘が生じることがありうるのか。

詳細はあえて述べないが、状況から、2026年1月25日の健忘は、脳虚血(一過性の)が誘因となった可能性を否定できない、と自分では考えている。実は、突然健忘に襲われたことは何年か前にもあり、今回が2回目である。健忘は2回とも、見当識障害の感覚を伴っており、見当識障害の感覚は、不安や焦燥感を呼び起こす。2回目が起こってしまったということは、また次の健忘が起きる蓋然性が増したと考えられるし、次の回では脳虚血が一過性ではなく梗塞にまで至ってしまえば、精神活動に不可逆的な障害が生じてしまうかもしれないと考えられる。

松本次郎が描いた長編SF漫画『女子攻兵』に、印象的なセリフがある。

作品の舞台は未来の世界で、そこでは、「異次元空間」に進出、移住し、地球からの分離独立を求めて武装蜂起した人々と、地球連合軍との間で戦争が行われている。そして、人間が乗って操縦する巨大ロボット兵同士によって戦闘が行われる。ここまでは、テレビアニメ『機動戦士ガンダム』によく似た設定であるといえると思う。地球は「預言者」と呼ばれるひとつのコンピューターによって実質的に支配されており、地球連合軍のロボット兵は「預言者」が設計している。あるとき「預言者」は、人間の代わりに人工知能(AI)を搭載したロボット兵を1台作るが、この人工知能が自我を持ち、「ツキコ」と名乗り、「預言者」にも制御できなくなり、ロボット兵「ツキコ」は暴走して逃亡する。「預言者」は、「ツキコ」を抹殺しようと、人間が乗ったロボット兵の追っ手を何度か差し向ける。しかし「ツキコ」は高性能で非常に強力で、すべて返り討ちにしてしまう。最終的に「預言者」は、「ツキコ」を抹殺することに特化したロボット兵「キリコ」を設計する。その「キリコ」に乗り込んで操縦するのが、漫画『女子攻兵』の主人公・タキガワ中尉である。この作品に登場する地球連合軍のロボット兵のうち、搭載された人工知能がそれだけで独立して動かす個体は「ツキコ」のみであり、他は「キリコ」も含めてすべて、人間が乗って操縦するものである。いってみれば、前者は「鉄腕アトム」型であり(「鉄腕アトム」では、搭載された人工知能は「電子頭脳」と呼ばれた)、後者は「マジンガーZ/ガンダム」型である。ただし、「ツキコ」にしろ他のすべての地球連合軍のロボット兵にしろ、巨大なことを除けば、人間そっくりで人間と見分けがつかないように描かれている。そして、空は飛ばない。

『女子攻兵』の終盤で、「ツキコ」を追い詰めた「キリコ」(つまり、それを操縦しているタキガワ中尉)と「ツキコ」が、比較的長い会話をする。

… ツキコ「あんたがここに来た理由だよ もっと言えばあんたが生まれてからここへ来るまでのね それとツキコを比較してるワケ」  タキガワ「俺のクソみたいな人生と何の関係がある?」  ツキコ「クソかどうかは問題じゃない どんな経験をしようがツキコには実感が無いんだ」(『女子攻兵』(新潮社)P254) … ツキコ「あんたのそのクソみたいな人生が 羨ましいって言ってるんだよ」(同、P256) … 

この会話を読んだとき、わたくしは内心快哉を叫んだ。追っ手から逃れ続けられれば半永久的に生きることもできるかもしれないアンドロイドが、短い寿命しか持たない人間を羨ましがっているのである。有限の人生も捨てたものではないと思い、一時(いっとき)だけ、光明が差して死への恐怖に対抗する道筋が示されたような気がした。まあ、その後すぐに、「実感」が永遠に続けばいいんだけどね、ということに思い至ったのだが。

しかし、「実感」を貴重なものだと思えば思うほど、それを失ってしまうことへの恐怖は増すのである。

自らの存在意義が意識だと思っていて、生≒意識であり、生きること≒世界を意識することだと思っていて、死の最大の恐怖は、意識が失われて永久に戻ってこないことからくる絶望感と寂寥感だと思っている人間にとって、生物学的な死が訪れる以前に意識が損なわれるということは、たとえば、意識が混濁してしまったり、「実感」を意識する能力が不可逆的に低下してしまうというようなことは、やはり同じように怖ろしいのである。2026年1月25日のできごとは、その恐怖をわたくしにもたらすとともに、それがいつ起こるかもしれない、すぐにでも起こるかもしれない、という不安をかきたてた。

「クライシス」というのは大げさかもしれないが、わたくしは、このブログを開始する前に決定的に精神活動が低下してしまってはまずい、早く開始しなければ、と、焦ったのである。そのため、構想し、また一部書き始めてもいたものから差し替え、一身上のできごとを綴り他者となかなか共有できない部分が多いと思われるこの文章をまず書き、いくつかの短い文章とともに発表してしまうことにした。自分と世界に対する言い訳のような文章からブログを始めるつもりではなかったのだが。

知力を保ててブログを長く続けられれば、もっと楽しい文章もたくさん提示できると思います。

2026年1月25日の危機の後わたくしを支えてくれた妻に、感謝をささげます。

 2026年5月6日

投稿者

しまづみ

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